hiroohiのメモ

はてななのでITやスタートアップ周りの話(ほとんどが自分への備忘録だけど)を書いています。

リクルートを卒業します。

今月末で、リクルートを卒業することにしました。

一部お会いできた方々にはご報告できましたが、それ以外の方々には突然のこととなってしまい申し訳ありません。

1997年に新卒で、当時のリクルートコンピュータパブリシングに入社しましたので、17年間をリクルートグループで過ごしたことになります。

ちょっと振り返ってみます。

こんなことをしました。

インハウスエンジニアでスタート

新卒でリクルートコンピュータパブリシング(RCP)に入社しました。途中リクルートメディアコミュニケーションズ(RMC)に変わりましたが2007年までいました。

新卒の面接で「インターネットしたい」と言ったこと&一応理系(画像工学)だったからか、技術開発課という部署に入ったのが自分のエンジニアとしてのスタートになります。全メディアの制作システムの基盤となるようなものをUnixMac問わずたくさん作ってました。

全く経験はなかったに等しいので、とにかくひたすら本読んだり真似したりと勉強することから始めたことを覚えてます。そんな状態のくせに「写真は特技」と言い続けてきたら、画像に関する仕事の声がかかり、最終的には社内随一の画像に詳しいエンジニアになれたような気がします。

タイミング的にも印刷物からネット、マルチメディア(!)に変わろうと、またフィルムからデジタル写真の時代に変わっていく時代だったので、リクルート全体での写真のデジタル化のフロー設計、品質評価や最終的にはフルスクラッチの画像処理エンジンKirinを開発したりと、面白い仕事を経験できました。

またこの部署にはid:iRSSさんがおりました。ぼくの社会人人生の9割くらいid:iRSSさんと同じ部署になることも一緒にラボを立ち上げることもR卒業のタイミングまでほぼ同時になることなど当時は全く想像もできませんでした。

たたみラボ:Web2.0に浸かる

そんな中2005年くらいのWeb2.0が流行ってきて、たたみラボをすることになりました。きっかけは後の所長となる木村稔さんに夢を語ったこと(だと思う)。これで立ち上げの際に呼んでもらい、さらにオープンデータの時代が来る、APICGMの最前線にたつべきだという社内懸賞論文も評価していただき、たたみラボではマッシュアップからスタートして最終的にはホットペッパーAPIを爆速で作る経験をしました。渋谷さんから連絡があって、@yugo_yamamotoとid:iRSSと僕で一ヶ月くらいで作りました。ぐるなびより先に出すために。 実はホットペッパーAPIを書くまでPHPSQLも未経験だったんですが、それが月数千万リクエスト、しかもVPSサーバ一台の状況で提供してたのは振り返ると怖いことですよねw。

たたみラボのころは実は主務が別にあり、20%のウェイトでラボ活動をしていたのですが、実際は朝から18時頃までラボのたたみ部屋にいて、それから主務の業務、22時頃帰宅してから夜中の3時までまたラボ的な開発、みたいに主従が逆転してました。ほんと楽しかった。

この活動の中で、技術追求よりも技術を元にたくさんの方々のお役に立てるサービスを作って運営していきたい気持ちが強くなってきました。

MTLの立ち上げ:CGM,APIと基盤作り

APIを出してオープンイノベーションだ!と言ってホットペッパーAPIも作ったけど、子会社の立場ではデータに関して何の権限もないし、なかなか苦しいと思っていたところに、メディアテクノロジーラボを作るからリクルート本社に出向して、という話になりました。

でも最初は何もない訳です。リクルートWEBサービスとして全メディアのAPIを作っていこうとぼんやりあったけど、インフラとか何もない。社内の認知理解はゼロ。むしろネガティブな見られ方をすることも。そんな状況だったので最初にやったことはAPI開発に加えインフラ的な整備、他部署への協力取り付けでした。

API開発は実は決まっていたのはホットペッパーとAB-ROADのみ。でも全媒体でやらないと意味がなかったので、API全体の基盤開発とAB-ROAD開発はid:iRSSさんと現KAIZEN platform Inc.のCTO石橋に集中してもらい、僕はIMOの前田くんと一緒にそれ以外の媒体への許諾取り付け営業とその媒体の開発をしました。僕が開発したのはホットペッパー、進学ネット、カーセンサー、赤すぐ、eyecoだったかな?

その後、諸事情があってリリース寸前だった演劇ライフにジョインし、チームを立て直すだけのはずがMTLから卒業させるまでの3年間担当し、PL/CTO/サポート/営業等フルスタックに関わりました。

演劇と平行して、インフラとしてAWSを使いたく、その社内説得(全社インフラ部隊のマネジャーとかなりやり合ったりしました…)や構築もやりました。インフラも未経験だったけど必要だったから理想を追求し、まだ一般的じゃなかったサーバ仮想化を採用したりしながらプライベートクラウド2つ作ったあとAWSに切り替えました。

AWSとの最初の出会いは強烈で、多産多死の新規事業でこれを使わない理由はないと思ってたけど、これもまだクラウドって言葉がなかったり,理解が全然得られなかったから本当に大変で3年くらいかかった。AWSの中の人やJAWSの人に大変お世話になってようやく実現できた感じです。

リクルートへは3年間出向の後そのまま転籍しました。

最後はスマホサービスの運営

演劇ライフをニジボックスに卒業させたあと、最後は自分が起案したサービス、写真のサービスを立ち上げたい、ということで作ったのがAmbrotypeでした。AmbrotypeはPM、フロント開発,宣伝等本当にすべて経験させてもらいました。MTLでもスマホアプリの最初期のものだったので地雷もよく踏みましたし、成功しているとも言えないですが、非常に多くの得るもの,多くの貴重な出会いがありました。

そして卒業直前には調整さんのアプリ化をさせてもらいました。調整さんは発案、最初のリリースには関わってませんが、多分2008年くらいからずっと面倒を見てきていた原点的なサービス。最後調整さんで終わることができたのは幸せだなあと思います。

こうして振り返ってみると、いろんなことをしてきましたが、結局のところ世の中にサービスを提供したくて、そのために必要なことをがむしゃらにやってきたように思います。

なぜ卒業?

リクルートは外から「40歳定年」って言われちゃうくらい昔から新陳代謝が激しい会社です。新卒の頃からそれは少なからず意識をしていたし、MTLが始まった時はこの部署で最後にしようと思っていたし、毎年何となく考えてはいたのですが、この一年くらいでMTLのメンバーも入れ替わっていく中で「あ、そろそろだ」と頻繁に思ったのがきっかけです。自分自身に違和感を感じたような。

41なので新しい挑戦をするなら早くせねば、と。

最後に

「たたみラボ」〜「MTL」が自分にとってはかなりのジョブチェンジだったこともあり転職した気になってましたが、リクルートに17年もいて、半分がラボって…ここまで長くいることは全く想像できませんでした。

リクルートでは社会人のすべて、エンジニアのすべてを勉強させてもらいました。そして、たくさんのすごい方々とお仕事ができたのもものすごい経験でした。

リクルートの昔の社訓に「自ら機会を作り出し、機会によって自らを変えよ」という言葉があったのですが、すぐにまわりに流されてしまう僕はこの言葉に何度となく助けられました。 写真の仕事ができたのも、たたみラボでAPIをやったのも、サービスの企画開発運用をできたのも、すべてこの言葉の通りだなあと。

そして卒業も、自らを変える機会です。

リクルートで過ごせたことを誇りに思います。ずっと楽しかったです。

社内でお世話になった皆様、社外でお世話になった皆様、コミュニティでお世話になった皆様、本当にありがとうございました。

4月より新たな挑戦を始めます。ほぼ同業ですので、引き続き宜しくお願いします。